麺はどのように伝わったのか
黄河流域で生まれた麺は、長い歴史の中でどのように伝わっていったのでしょうか。麺の製法系列別に見てみましょう。
器具を使わない手延べラーメン系列のなかでも、手をローラーのように使って生地をのばす方法や、指の間からもみ出す方法など、最も単純な麺の作り方は、モンゴルや中央アジアに伝わりました。
モンゴルでは、棒状にした生地をまな板の上にのせ、両方の手のひらをローラーのようにこすりながらのばします。小麦粉麺のほか、ハダカエンバクの麺を作るときも同じ手法です。
中央アジアのラグマンは、棒状にのばした生地を渦巻きの形に巻き、少し寝かせた後、油をコーディングしながら手でのばします。
一方、中国料理店などで実演される2本が4本、4本が8本…という手延べの高度な技術、いわゆる拉麺の技術は、明代の山東半島が起源と言われています。山東出身の料理人が、華北や東北(旧満州)などに伝えたものだと言われています。なお、日本や東南アジアに伝播したのは20世紀になってから。また、チベットのメンチッチという麺も拉麺と同じ技法で作られます。
油で生地をコーティングする索麺は、日本へ伝えられ、そうめんとなりました。鎌倉時代に留学僧によってその技術が持ち帰られたと言われています。現在、中国では福建省を中心に作らていて、線麺、麺線と呼ばれています。
唐の不托が起源とされる切り麺は、アジア各地に伝えられました。この麺作りの技術は、小麦粉だけでなく、そば粉、ハダカエンバクの粉など、さまざまな原料を使う麺作りに生かされています。日本のそば、うどん、チベットのトゥクパ、朝鮮半島のカルククス、中央アジアのケシュマ・ラグマン、東南アジアのミー類などです。
日本へ切り麺が伝わったのは鎌倉時代と考えられていますが、文献に登場するのは室町時代になってからのことです。皇室の調度品を管理していた今日の山科家の日記に、切り麦と書かれているのが最初です。
朝鮮半島では、17、18世紀頃から切り麺のカルククスが普及します。中央アジアでは、のばした生地をロール状に巻いて切るケシュマ・ラグマンとなりました。また、東南アジアへは19世紀以降に華僑によって伝えられています。
押し出し麺は、その原料によって伝播経路が分かれます。ハダカエンバクを原料にした押し出し麺は、中国の山東省、陝西省、寧夏回族自治区で作られていますが、この地域に接する内モンゴルでも見ることができます。モンゴルへは南方の漢民族から伝わったのではないかと考えられています。
そばを原料にした押し出し麺は、中国の東北地方を経由して、18、19世紀頃に朝鮮半島に伝わったとされています。そば粉に緑豆デンプンやじゃがいもデンプンを混ぜて作るネンミョンは、特に北方で発達しました。なかなか噛みきれない弾力があるのが特徴です。
なお、ブータンのそばの押し出し麺、プッタの伝播については、まだ解明されていません。
一方、米を原料とする押し出し麺は、インドシナ、東南アジアに伝わりました。米の押し出し麺は、中国では宋の時代から南部の稲作地帯で食べらていたようです。
生麺で食べる太めのものは、内陸を伝わってインドシナ半島に伝えられました。タイのカノムチーン、ベトナムのブンなどがそうです。マレーシアのラクサについては、19世紀頃の中国系移民がもたらしたと言われています。
同じ米の押し出し麺で細い乾麺の米粉(ビーフン)は、19世紀になって華僑が東南アジアに伝えたと考えられています。
タイのクイティアオ、ベトナムではハノイのフォー、ホーチミンのフーティエウなどの河粉系の麺についての伝播経路は、まだ不明な点が多い。ただ東南アジアへは広東省や福建省から華僑によって伝わったのではないかとされています。
ところで、中国発祥の麺ともう一つの麺食文化圏イタリアのパスタとは、どのような関係があるのでしょうか。かのマルコポーロがマカロニの製法を伝えたという話がありますが、それは全くの伝説です。
2つの関連を探る鍵となるのが、シチリアのイットリーヤという麺状の小麦粉麺があったと言われています。11世紀初頭に活躍したイスラムの哲学者・医学者のイブン・シーナは、アラブのイットリーヤとペルシャや文化圏のリシュタが同義語であるとその著作の中に書いています。ペルシャ文化圏にも同じ麺が存在していたと考えられ、さらにそれは彼の出身地である中央アジアにもあり、リシュタと呼ばれていると書いています。
となると、このイットリーヤ=リシュタ系の麺と中国系の麺が、中央アジアのどこかでめぐり会った可能性があります。東西文化圏を結ぶシルクロードは、ひょっとしたら麺ロードだったかもしれません。
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