麺はよく考えると不思議な食べ物です。アジアのほとんどの国の人々が種類は異なるにしても同じように細長いものを食べています。 そして、はるかイタリアではパスタ。 こんなにも人々を魅了してやまない麺は、そもそもどこからやってきたのでしょう?
masctybpxs
masctybpxs
hzbhiagcca
medzwjjyez
ubccgdersg
ubccgdersg
jefmzwwnjm
ggtatrgbsb
中国・北部、黄河流域。ここが麺のルーツといわれており、小麦を原料とした様々な食品が発達しました。
紀元前7000年頃に、メソポタミアで栽培されていた小麦が、中央アジアからシルクロードを経て、この地に伝わったのが、約3000年前。春秋戦国時代に、回転式の石臼とともに華北にもたらされました。中国では、この時代、鉄製農具も発達、農業生産力が急速に高まっていました。小麦栽培は、前漢の末頃になると華北平野で盛んに行われるようになります。
当時はまだ、小麦粉を練った生地を細長くした、いわゆる麺状態では食べていなかったようです。小さくちぎったスイトン状や平たいワンタンの皮状のものを食べていました。
中国の文献で最初に麺の名前が出てくるのは2世紀頃。後漢の崔寔が華北の豪族の生活を歳時記風に記した『四月月令』の中の5月の部に「煮餅」と「水洩餅」という言葉があります。「煮餅」はスイトンやワンタン状のもの、「水洩餅」はひも状のもののことです。この文献ではただ麺の名前だけが書かれていますが、麺の作り方について記載のある最初の文献が『斉民要術』です。『斉民要術』は、南北朝の北魏代、550年ごろに書かれた農書・食物大全です。食べ物に関することが具体的に記述されていて、説明をもとに当時の食物を再現できるほどです。『斉民要術』には「水引餅」が登場していて、その作り方は、「小麦粉をよくふるい、さめた肉の煮出汁でよくこね、箸の太さほどの棒状(30センチ)にし、水を張った器の中で、指でもみ押さえながら引き延ばす」ということです。
ちなみに中国では、餅はモチのことではなく、小麦粉を使った食品全般をさします。また、麺という言葉も、小麦粉のことをいいます。
また、この餅は、その調理の仕方によって、4つの系統に分けることができます。水で煮る湯餅、蒸して作る蒸餅、焼いて作る焼餅、油で揚げる油餅の4タイプです。この分け方によりますと、日本語でいういわゆる「麺」は”スープ料理の小麦粉食品”湯餅の系統に入り、アジアの麺はここから派生していったと考えられます。
ところで上の図は、日清食品が主催した「めんの系譜研究会」による麺の系譜図です。この図では、麺を伝統的な製造方法で分類していて、湯餅とアジア麺との関係が一目でわかります。
手延べラーメン系列は、練った小麦の生地を手でのばす製法で、『水引餅』の直径にあたります。そうめん系列は、練った生地をひも状にのばし、表面に植物油を薄く塗り、2本の竹の棒にかけてさらに引きのばす作り方のものです。日本の手延べそうめんと同じ製法ですが、そのもとの索麺は、元代に発行されたといわれる『居家必用事類全集』に登場します。
切り麺系は、練った小麦粉の生地を麺棒でのばし、包丁で切って細くする製法のものです。この起源といわれているものが、唐代の不托です。それまで麺は手でのばす手法だけだったものが、唐の時代から麺棒でのばし、刃物で切る製法が始まり、人々がその方法を不托(手に頼らない)と呼んだと言われています。
押し出し麺は緑豆やそば、米などの粘りの出ない生地から麺を作るのに考えられた方法です。生地をトコロテンのような感じで押し出し細長くします。原料によって、緑豆粉の麺、そば粉・ハダカエンバクの麺、米粉の麺の3つに分けられる。
河粉系列の麺は、米粉が原料ですが押し出し麺とは違うタイプの系列です。うるち米を水に漬けて吸水させてから回転式の石臼でひき、そのペースト状になったものを蒸したり煮たりして刃物で切って作るもので、中国の河粉、タイ、ベトナムなどにあります。